『まんが日本昔ばなし』、大好きなんですよね。
あの頃、土曜の夜にアニメを視ていましたけど、絵本の印象も強いです。
箱入りの、一話一冊の小冊子のようなポケットサイズの本で、それが小学校の教室に置いてありました。
低学年の頃、朝の会のすぐ後に、その絵本を読む時間があって、クラス全員に配って、一日ごとにスライドさせて、毎朝一人一冊ずつ読んでいくんですね。
多分、小学校に上がりたての子どもたちに、お話で情緒を育みながら、文字に親しむというようような、そんな目的があったんだと思うのですけど。
一気に読み終わって、前の席のコの次に自分に回ってくる絵本をチラチラ確認したりして、それが明るそうな絵柄だとワクワクしたり、怖そうだと怯えたり。
その時間が、ほんとうに大好きだったなぁ。
こういう体験が、少なからず、今の自分を形作っているんだと思います。
【関連リンク】
まんが日本昔ばなし〜データベース〜
「まんが日本昔ばなしの絵本、全60巻と全80巻(童音社)全52巻(鶴書房)」
今も、もちろん大好きで、少しずつですが見返しています。
視聴メモを確認してみたら、現在のところ440本まで視ていました。
全1474話ということですから、全体の約3分の1ほどですね。
まだ3分の2あるという嬉しさと、もう3分の2しかないという寂しさ。
震え上がったトラウマ話から、心温まる人情噺から、切れ味鋭い風刺から、シュール全開ツッコミどころ満載のめちゃくちゃな話から、ゆるいものから過激なものまで、ほんと面白いし楽しいです。
その中から、印象に残っている話を、いくつか記事にしてみたいと思ったので、書いてみます。
お話そのものよりも、お話の中で引っかかった部分や、そこから掘り出された体験や思い出、創作上のヒントなどを中心に語ります。
できれば、本編を視聴してから、お読みいただく方が、意味が理解できて楽しめるかと思います。
よろしかったら、どうぞ。
それでは今回は、地元・福島県の昔話から『雷さまと桑の木』についてです。
『雷さまと桑の木』
◯放送日:1976年04月10日(昭和51年04月10日)
◯演出:多井雲 文芸:沖島勲 美術:小関俊一 作画:菊田武勝
◯ナレーション:常田富士男
◯DVD情報:DVD-BOX第3集(DVD第14巻)
◯あらすじ
男の子が母親のいいつけで、茄子の苗を買ってきて植えると、苗はぐんぐん伸びて雲の上まで届いた。茄子の木を登って雲の上に行くと、大きな屋敷があった。
そこにいたおじいさんが、毎日おいしい茄子を貰っているお礼だと言って、二人の娘に男の子をもてなさせた。そのあと、おじいさんは仕事があると言って鬼の姿になり、太鼓をたたき、娘の一人が鏡で稲妻を、もう一人が柄杓で雨をふらせた。
男の子はおもしろがって、娘から柄杓を借りて雨を降らそうとするが、雲から足を踏み外してしまった。落ちたところは桑畑で、運良く桑の木にひっかかり助かった。
それ以来、雷さまは、男の子を助けてくれたお礼に、桑の木の側には雷を落とさなくなったという。
【引用】
まんが日本昔ばなし〜データベース〜
「雷さまと桑の木」
◆ 感じる違和感
まず、通して視て気づくのは、いくつか別々のお話が混ざったような、ごった煮な感じ。
それと、明るい世界に、まるで水を差すように、唐突に流れる「おっとうが死んだ」という歌ですね。
◆ テンプレ+テンプレ+テンプレ…
「昔ばなし」をたくさん観ていると、いくつかの「類型」や、「おなじみのパターン」というものが見えてきます。
「押しかけ嫁入り」シリーズや、「行商の男」シリーズ、「狐と狸」などなど。
この話も「ジャックと豆の木」系の…
・ 植物が成長し、天まで伸びる
・ その先には、別世界と異界の住人
というパターンの一つです。
類似の作品に「天までとどいた竹の子」などがありますね。
(これ、オチがけっこうエグいんだけど、とりあえず今のところは)
「やさしい鬼」「雷さま」というパターンも多いです。
人をさらって喰ったり、村を荒らしたりの、乱暴者で怖いイメージの鬼が、優しくしてくれたり利益をもたらしてくれたりの、情に厚いヤクザのような。
なんでしたっけ「グッド・バッド・メン」?
「爺婆かぼちゃ」や「鬼からもらった力」などですね。
雲の世界での、非日常な空間での冒険という、心躍るパートでもあります。
そして、「由来」や「起源」で落とすパターン。
「昔ばなし」には、語源や習わしなどの「由来」「起源」オチで締めるケースが、かなりあります。
このお話も、「桑の木には雷が落ちない」と言われるようになった「由来」として、締めくくられます。
昔話は、人の口で伝えられてゆく間に、その土地の風土や風習に合わせて変化する、ローカライズされるという性質があるので、そういうことも関係しているのかなと思ったりします。
これら一つ一つの類型テンプレートが、小さなお弁当箱に、ぎゅうぎゅうに詰まっている感じです。
私も漫画のプロットで、よくやるのですが。
テンプレを重ねると、テンプレからズレます。
一品一品は、ごく一般的な普通の料理でも、それが丼に盛られたり、串に刺さって一度に出されると、普通じゃなくなる。
一匹一匹は普通の犬でも、三匹融合したらケルベロス。地獄の番犬。
爆 竜 合 体 ☆
この部分の妙技も、チェックポイントです。
◆ 哀しい歌の違和感
この、テンプレートのお団子を貫いている串の部分が、この男の子の「気持ち」であり「感情」であり「行動理由」なんですけど。
この部分の説明が、少々テクニカルで、初見では戸惑ってしまうんですよね。
最後まで視れば分かりますけど。
物語を貫いている、この子の感情は「おっとうがいない寂しさ」です。
茄子の木を登って、雲の上まで行ったのは「おっとうを捜していた」からです。
それなのに、この部分の説明が、冒頭で一切語られていない。
通常の話なら、「起承転結」の「起」部分として、ナレーションベースで説明されているはずの部分が、ポッカリ欠けています。
「大好きだった父が5年前に死んだ」
「30すぎの若さで、屋根から落ちてあっけなく死んだ」
「おっとうがいなくなって、おっかあも自分も悲しかった」
という、キャラクターの状況と行動の動機の説明が、すっぽり抜け落ちている。
説明されないまま、ニュアンスだけが端々に登場し、影を落とす。
きちんと説明されるのは、最後の最後です。
冒頭、空の美しさに見惚れる、男の子の独白から入ります。
「おっとうが死んだ」ということが視聴者に知らされるのは、本編開始から2分すぎ、茄子が大きく成長しきってからです。(10分ちょっとしかないのに!)
ものすごく唐突に感じます。
明るい男の子のキャラクターと、刺激的な非日常の冒険、楽しいひと時。
でも、ふとした瞬間に「父ちゃんとの想い出」がフラッシュバックし、あの歌が流れます。
そして、冒険を終え、家に帰った男の子の気持ちが語られるのは、最後の最後にナレーションで、です。
「オラなぁ、空まで行ってみただが、やっぱりおっとうはいなかっただ」
息子は、きっとそう言いたかったに違いありません―――
◆ 感情の「倒置」的表現と「帰納」的収束
このお話は、主軸になっている男の子の行動理由が、最後まで明言されないという構成になっています。
ストーリーの「起承転結」が入れ替えられた、「承転結起」という、文法でいうなら「倒置法」のようなカタチ。
なぜ、この子が「こんな風に振る舞うのか」の説明を最後にし、今までの行動は全て「こういう気持ち」があったからとする「帰納法」的な収束。
家族や大切な人が亡くなって、不自然なほど明るく振舞っていた人が、ふとした瞬間に寂しさを感じて、うつむく感じは、ものすごくリアルです。
◆ 視聴者の戸惑い
初見の視聴者の気持ちで、物語を追ってみます。
「起」の部分は、簡単な状況説明のみに留められ、キャラクターの過去や心情は省かれています。
だけど「昔ばなし」という作品の性質上、深く説明されないことも多いので、あまり気にはなりません。
(「ジャックと豆の木」系の、植物が天まで伸びる「例のアレ」ね?OK?OK?)
……という感じで、空白の部分を視聴者が脳内で補完して、観賞を続けます。
明るく朗らかなキャラクター、優しく柔らかな絵柄に、そういう作品として解釈してゆく。
そこで、「おっとうが生きていたらなぁ」というセリフや、「おっとうを恋しがる」心情や内面を表す歌が流れます。
視聴者は、「起」の部分をすっ飛ばされていて、自分でそこを補完して、明るい「陽」の物語だと解釈して視ていますから、「え?」「なんで?」という違和感を感じるんですよね。
この感覚が、以前ラジオで伊集院光さんが言っていたような、「反応」や「感想」になるんだと思います。
(45分すぎあたり)
◆ ミスか?計算か?
全てのお話が終わり、最後の最後に、行動の動機になる部分、「起」の感情が語られる。
「ああ、坊やはおっとうを捜していたんだ」
「そのために、茄子の木を登ったんだ」
……ということが分かる。
優しく明るい世界に吹きこむ、冷たく哀しい風。
明るく楽しげに見える男の子の心の中にある、哀しみや寂しさ。
それが、違和感の正体です。
一度最後まで視て、男の子の感情まで理解してから逆算して、もう一度最初から視ると、すべてのピースがしっくりハマる。
男の子の明るさが、画の優しさが、母子の深い悲しみを、逆に引き立てる。
これは、完全に狙って「演出」されています。
◆ 心に針を引っかける
いつものテンプレートに添って、ナレーションベースで説明してスタートし、順番通り整然と展開していくこともできたはずです。
それをやらなかった、狙いは何か?
フックを作って、見た人の心に引っかかって、残りやすくするためです。
以前の「仮面ライダーのデザイン」についての記事でも書きましたけど、ストレートで理解しやすい、理路整然としたものは、忘れられるのも早いんですよね。
理解したものは、解決されたものとして、処理されてしまうから。
つるつるした食器は、滑って落としやすいんです。
【関連記事】
「「新しい仮面ライダーがカッコ悪い問題」について、いつも思うこと」
キレイにやっても、流れてしまって、心に残らない。
違和感やザラザラした歪みが引っかかり、心に残る。
そうでなければ、伊集院光さんも、この話をラジオでしなかったと思います。
その演出に恐れ入ります。
本当に素晴らしいです。
◆ 命綱がしっかりしているから、思い切って跳べる
こういう変化球が投げられるのも、みんなが比較的お話の展開を知っている、有名どころの、オーソドックスなストーリー原型が、バックにあるからですね。
『昔ばなし』には、作画や演出、解釈などを変えてのリメイクや、バージョン違い、類似の話がかなりあります。
そういう太い柱の作品があるから、そこを視点に、ジャンプできるんだと思います。
◆ 視よう、読もう『まんが日本昔ばなし』
『まんが日本昔ばなし』は、回ごとに、様々な実験的だったり、担当したスタッフの独自色が全開だったり、アグレッシブかつアーティスティックで、今視ても斬新です。
全部で1474話あるので、中には当然、駄作もたくさんありますけど。
裾野が広いからこそ、山は高くなる。
DVDが少し高いのと、セレクトされてしまっていて、お目当ての話がソフト化されていなかったりするのが難点ですが。
やっぱり、視てもらうのが一番で。
公式に一話50円くらいで配信してくれると、ブログに堂々と貼れて、もっと紹介しやすくなるんですけど。うーん。
学校や図書館に置いてあるところもあるので、是非見てほしいです。
損はないですよ。
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